SHIRATORI, K.: Notes on the Destructive Earthquake in Sagami Bay on the First of September, 1923
Jap. J. Astro. Geophys., 2 (1925), 173-192. [pdf]
地電流観測は力武・山崎(1980)によれば,1849年にBarlow(1849)がイングランドで電信線を用いて行ったのが最初であり,地震に伴った地電流の異常の報告例は1871年3月17日カナダのニューファンドランド島付近で起こった地震の場合(Varley, 1871)が最も古い。
地電流の観測は2地点に埋設した電極間の電位差を測定することによって行われるが,電極と土壌との接触電位の安定性,降雨の影響,外部磁場の変動による誘導電位変化など地殻活動に関連した自然電位変化を検出するためにはいろいろな問題がある。
日本においては,関東地震の際にShiratori(1925)が震央から約350km離れた仙台で異常な電位変化を記録した。福富(1934)は,震央距離20km付近で南伊豆地震に伴う異常な地電流変化を記録した。さらに,吉松は平行する2本の測線の地電位差を測定し,その重み付きの差をとる差電位差法により顕著地震に伴う地電位差の変化を報告している(吉松,1937,1938,1943)。
最近報告された例は,小山・本蔵(1978)の中伊豆における伊豆大島近海地震に伴う変化,宮腰(1985)の山崎断層付近の地震に伴う異常変化(図16-1参照)の報告などがある。
ギリシャにおいて,地震に先行した異常な地電位変化が観測されたと報告されている(Varotsos and Alexopoulos,1984)。この場合,地震発生場所と異常の検出される場所との間に特別な関係があるなど,その物理過程に不明な点が多い。
このほか,白鳥勝義講師が地球物理学の講義を担当した。白鳥は,大正12年(1923)の関東地震の観測結果を論文「1923年9月1日相模湾に発生した破壊的地震について」(昭和元年(1925))に報告し,その中で関東地震に伴うとみられる地電位差の異常変化が電位差計によって検出された事を記述している。
東北大学では、昨年 3 月の東日本大震災以降、国内外の大学・研究機関と協力し、被災地の復興・再生に貢献するための様々な取組を行っていますが、昭和戦前期にも災害時における大学としての役割が問われた時代がありました。今から約80年前の1933年(昭和 8 ) 3 月に起きた昭和三陸地震とそれに伴う三陸大津波が発生した際、東北帝国大学では、1934年度分の概算要求において「向山観象所専任職員配置」の経費を要求しています。附属向山観象所は、1912年に向山に設置されて以来、気象と地震の観測を行っていましたが、専任の所員、独立の経常費が措置されておらず、災害発生時は日常必要な観測も放棄しなくてはならない状態でした。概算要求には「先ヅ専任職員若干ヲ置キ津浪ノ実験的研究並ニ実際資料ヲ収集セシメ又地磁気及地電気観測ノ指導監督ニ任ゼシメム」とあり、その経費を求めています。東北振興調査会の答申も後押しし、その後、向山観象所は1938年に要員増と独立の経常費が認められ、本学における地球物理学研究の礎となり、災害予知の研究が一層進展していくことになります。
わが国におけるラドン研究も欧州にそれほど遅れを取ることなく始まった。それは取りも直さず、時代の要請でもあった西洋文明の取入れと無関係でなく、多くの若き俊才が欧州の留学して持ち帰った最新の知識に基づいて研究を推進したからにほかならない。1909年から1911年にかけて、石谷伝一郎と真鍋嘉一郎が、湯河原、伊豆山、熱海、飯坂、有馬、城崎、道後、別府など日本各地の著名な温泉と鉱泉の放射能調査をしている。1910年のハレー彗星接近時には、木下季吉が大気中の放射能の測定をしている。1913年から1915年にかけては、石津利作と衣笠豊によって国内600以上の温泉と鉱泉のラドン含有量が測定され、その結果は1915年のセントルイスの万国博覧会で論文として発表されている。1925年の但馬地震の直後、温泉水中の放射能変動を測定した白鳥勝義は、ラドンによる地震予知の可能性を指摘したが、地震との関連に言及したのはわが国では初めてと思われる。
この頃の研究例を、1911年にPhilosophycal Magazine and Journal of Science, 22に掲載された木下季吉を筆頭者とする日本人3名連記の論文1)からみてみよう。この、長岡半太郎によって指導された研究の内容は次のようなものである。地上6.5mと1.5mにそれぞれ長さ27m、直径5mmのワイヤーを張り、それらと地上との間で-11,000Vの電界を掛け、そのままの状態で4時間放置した。つまり、ワイヤーに負の電圧を掛けることによって、大気中の正イオン成分をワイヤーに集めたのである。捕集終了後、ワイヤーを巻取って検電器で測定した。この計測からα線による電流が測定され、その経過時間を追った減衰曲線からワイヤーにはRaA(218PO)ハ、ThA(216PO)が捕集されたことがわかり、ラジウムエマナチオン濃度は5pCi/m3(0.19Bq/m3)と求められた。高さ6.5mと1.5mの位置に張られたワイヤーで集められた放射能の比は、ラドン小孫核種の場合は0.9で、トロン小孫核種の場合に0.52であった。これから、地上より高い空間の方が濃度が低いこと、低くなる傾向はラドン小孫核種よりもトロン小孫核種の方が大きいことがわかった。また、ラドン小孫核種とトロン小孫核種の比が、6.5mの場合に2.9であり、1.5mの場合に1.4であったと述べているが、これは、地上より高い空間ではトロン小孫核種に比べてラドン小孫核種の相対的割合が高かったということを意味している。わずかな測定例に過ぎないが、この結果そのものは今のわれわれの知識と一致している。現在の知識・技術レベルからすれば、もっと正確でスマートな測定ができるが、当時としては斬新な成果であったといえよう。日本人による初期のラドン研究という意味でわれわれにとって記憶しておいてよい論文である。
地震電磁波現象の歴史(阪神大震災まで) 【1890】 明治政府のお抱え外国人学者のMilneが論文中に「東京で大気中の電荷変動を連続観測 していると地震に伴った変化が何度も観測された」と報告。 【1925年】 仙台で関東地震の際の地電位異常を白鳥が観測。 【1944年】 鳥取地震の後の余震観測で、地電位差の変化の伴う余震があることを永田が報告。 【1945年】 三河地震(M6.8)に伴う余震に関するもので「大きな余震の前にはラジオに雑音が入 るので、地震(余震)の発生を前もって知ることができた」との記録。戦時中の出来事 で空襲警報を聞くために、当時常にラジオの電源が入っていたという。 【1948年】 地震前には地電流に著しい異常があることを、荻原が数多く例示。 【1967年】 茨城県柿岡で地震に伴うと考えられる地電流変化を柳原・横内が観測。柿岡の東西方向 100km以内の地盤でのみ地震に伴う地電流異常が観測できると結論。 【1979年】 ソビエトの防空レーダーシステムが妨害電波により2日間使用不能。イラン地震(M7.0) による電磁波が原因と考えられ、以後、ソビエトで地震電磁放射について研究される。 【1982年】 菅平観測所でLF帯電波雑音の連続観測により地震電磁波放射の解析と電磁波により地震予 知の可能性を芳野、ゴルフベルグ(露)が報告。 【1984年】 山崎断層での地震(M5.5)で宮越が地電流異常を観測。 ギリシャの3人の学者(Varotsos,Alexopoulos,Nomikos)が地電流連続観測により地震 短期予知について論文を発表。研究者3人の頭文字からVAN法と命名。 【1988年】 ロシアのスペースプラズマ波動伝播研究のために打ち上げた衛星により、地震に関連する 電磁放射を受信されたとロシアの学者が報告。フランス、アメリカでも研究開始。 【1989年】 カリフォルニア、ロマ・プリータ地震(M7.1)で潜水艦探知のために開発していたイン ダクション型磁力計によって磁場強度の変化があったとスタンフォード大学のFraser-Smith が公表。 【1994年】 VLF帯既存電波(航行用オメガ電波など)が地震に伴う異常伝播があるとGufeldが報告。 【1995年】 阪神大震災で異常を観測。 ELF帯 畑(名古屋工業大学) 223Hz狭帯域での磁場3成分観測 VLF帯 藤縄(防災科学技術研究所) VLF帯による地中電界パルス測定 VL,VLF帯観測 尾池(京都大学) 空中のパルス状電界観測 HF帯 榎本(工業技術院) HF帯の地中鉛直方向電位差観測 HF帯 前田(兵庫医科大学) 22.2MHzでの木星電波観測 VLF帯(電離層)早川(電気通信大学) VLFオメガ電波観測 VHF帯(電離層)串田(八ヶ岳南麓天文台) VHF帯FM流星電波観測 震災時に震災地付近を走行していた福山通運のトラック運転手が、AMラジオ放送(ラジオ 関西)の雑音状況について証言(芳野1996)。 以上、「地震予知研究の新展開」(長尾 2001/近未来社)、「大気電気学概論」(日本大気電気学会2003/コロナ社)から抜粋
台北帝大理農学部の白鳥勝義らが中心となって、日本農業気象学会を設立Source: 臺北帝國大學與日本南進政策之研究 (National Taiwan Library)
123白鳥勝義,1922 年東北帝大物理學科畢業,留校歷任副手、講師、附設地球物理學教 室主任。1926 年任臺灣總督府高等農林學校教授,隨即以「在外研究員」身分赴德、 法、英、美4 國研究2 年。1928 年升任氣象學講座教授兼農林專門部教授,1930 至 1938 年又兼任臺灣總督府技師,負責測候所氣象事業之指導監督。1935 年2 月以論文 〈下層大氣に於けるイオン(ion,離子)化空氣の研究〉獲得東北帝大理學博士。1941 年4 月,另獲得九州帝大農學博士學位,戰後白鳥留用至1947 年始返回日本。白鳥主 持之氣象學教室擁有望遠鏡、紅外線分光器、電的自計、風力計、光度計、自記溫度 計、各種電位計、空氣電導度測定裝置等儀器300 餘件、圖書1,000 多冊、雜誌65 種。 配置有氣象調查室、光象研究室、宇宙線研究室、電磁學研究室、儀器修造室、溫濕 調節室、分光照相室、暗房、空氣實驗室等。此外,尚有附設氣象臺位於校本部基隆 路側門的東南方,四面全是田圃,空曠無遮蔽,適合觀測氣象之用,所觀測之風向、 風速、氣壓、氣溫、雲量、日照、降雨量等,均用自動儀器記錄,每日另以人工直接 觀測兩次,與自動儀器記錄互相校對。該臺於1945 年被臺灣大學接收時,存有十餘年 來的空中電氣照相自記紙,為國內各氣象機關所僅有。隨著南進政策的推移,白鳥深 入研究南方氣象的特性,建立南方氣象學新理論,且足以與日本本土氣象理論對立並 存。特別是當日本準備對美國開戰,選擇偷襲珍珠港最有利時機時,白鳥根據南方氣 象的特性,選定有利隱密行動且不易被美方發現的最佳氣候,無疑是日本學者「學術 為政治服務」的最佳例證。白鳥曾於《臺北帝國大學理農學部紀要》發表〈空氣中に 於ける「イオン」化平衡と海上に於ける核粒子〉、〈大氣電導度と氣象要素〉、〈大氣 のイオンスペクトル(ionspectrum,離子頻譜分析)〉等論文。〈白鳥勝義(免兼臺灣總督 府技師)〉,《昭和13 年臺灣總督府公文類纂》,第10094 冊75 號文書,1938 年7 月14 日。臺北帝國大學:《學內通報》,122 號,1935 年2 月28 日。臺北帝國大學:《學內 通報》,264 號,1941 年4 月30 日。國立臺灣大學編:《國立臺灣大學概況》(臺北: 編者,1947 年),頁56。〈本校氣象臺一瞥〉,《臺大校刊》第6 期,1947 年12 月,版 3。劉盛烈:〈我的臺大人經驗〉,《從帝大到臺大》(臺北:國立臺灣大學,2002 年), 頁162-163。林忠勝:《劉盛烈回憶錄》(臺北:前衛出版社,2005 年),頁47。