エッセイSource: 地震ジャーナル 7 (1989)
「地震観察衛星」について
小松左京
あれから四分の一世紀もたってしまったかと思うと,無常迅速の感がひとしおだが, 『日本沈没』の最初の章を書きはじめたのは昭和三十九年の四月で, その頃東京は秋のオリンピックをひかえて工事でごった返しており, 東海道新幹線はまだ開通しておらず,名神高速も開通していなかった. 大阪からは,たいてい夜行の「銀河」で十一時聞かけて上京しており, 時折深夜便の飛行機をつかったが,まだレシプロか,ターボプロップ機だった. ――だから,あの作品の冒頭の新幹線八重洲駅のシーンは,まったく想像で書いたが, その後もわざと修正しなかった.
作品のヒントを得たのは,その前年に完成した『復活の日』を書く時に, 大阪のアメリカ文化センターで度々閲覧させてもらったアメリカの科学雑誌で, 例のツゾー・ウィルソンの「大洋底拡大説」と, 「大陸移動説の復活」についての短信を読んだからだと記憶する. 出版社からせっつかれた事もあって書き出してしまったのだが, 結局はこのあと竹内均先生の五~六〇年代以降の地球科学の新しい展開を総括した『地球の科学』(NHKブックス)にたよらざるを得なかった. 書き出した時は,まだ「プレートテクトニクス」という言葉さえ現れていなかったと思う. 結局完成には九年かかり,1973年,第一次石油ショックの半年前に出版という事になった.
その九年の間だけでも,科学技術は大変な進歩をとげた.書き出した時は, ガガーリンによる人類初の字宙飛行から三年目だったが,それから五年後に, もうアポロ十一号による人類の月着陸がおこなわれている. 有人衛星軌道飛行は当たり前になり,おかげで作品の最後の方に,アメリカの有人観測衛星を登場させる事ができた. 3Dのコンビュータ・グラフィックスによるシミュレーションも,原理はわかっていたが, 作品の中でイメージをつくるのに苦心して,ばかでかい装置になってしまったが, 今ではデスクトップのワークステーションで簡単にできる.意外におそかったのが, バチスカーフ型潜水艇の応用で,これは書きはじめる前年に,アメリカが一万メートルの深度をクリアし,大いに刺激をうけたが, ようやく最近「しんかい六五〇〇」が実現した.
その後の技術発展のものすごい所は,何といってもコンビュータ関係の進歩で, これは二十五年前には想像もつかなかったほどだ.それと平行して,宇宙技術の発達と技術密度の向上もめざましい. ――近年,新大陸西海岸の火山爆発や,唐山,アルメニア,タジクの内陸地震など, 地球表面は何かとさわがしいが,そろそろ「地震観測専門衛星」が出現してもいいのではないだろうか? これまで大国の軍事偵察衛星やランドサットは,火薬庫の爆発や,原子炉事故など, ずいぶんこまかい事象までキャッチしていたようだが,大地震の前後に,地殻にどんな変化が起こるか,宇宙から観察された例はあまりきかない. 軌道要素や,どんな種類のセンサーをくみあわせるかは専門家に任せるとして, 「地震大国日本」はりっぱな宇宙技術も身につけた事もあるし,それ専用の衛星を持ってもいいように思う.
[こまつ さきょう 作家]