1986年からは、帰国されて「日本初」の外国籍の京都大学教授、そして1989年からは東海大学教授となられました。これまた偶然ですが、1990年に東大を退官した私も東海大学教授となりました。といっても、彼は開発技術研究所、私は清水の海洋学部でしたから、またしても近くて遠いような関係でした。事実、彼が東海大におられたことは、当時は知りませんでした。ところが、面白いことにこの時期から杉浦さんも私も全く独立に、地震予知の研究に飛び込んだのでした。これはまことにまれな偶然といえるでしょう。私の想像では、杉浦さんはそれ以前に地震予知に関わったことはなかったと思います。私のほうは理学部と地震研究所にほぼ30年も勤務したのですが、その間も、地震予知はおろか地震学そのものともあまり関係のない地球熱学とか、プレートテクトニクスなどに血道をあげていたのです。私自身の方向転換については分かっていますが、不思議なのは杉浦さんの転換過程です。実は開発研究所には杉浦さんの3年ほど地球物理先輩で、地震予知連会長の浅田敏さんが、これまた偶然、東大退官後、移っておられたのです。どうもこれがキーだったのではないかと思われます。しかし、それだけでは充分な説明ではないようです。さらに実は浅田先輩は、東海大に移られてからは、正統派の地震学や測地的手法ではなく、馬場久紀さんとともにVLF電磁波観測による地震短期予知の研究に熱中しておいでだったのです。そこで電磁波の専門家たる杉浦さんは一肌脱ぐ決意をされたのではないでしょうか?彼の広い科学的好奇心のなせるわざだったのでしょう。一方、私のほうは別な理由からULF地電流観測による予知研究を始めていたのでした。「おお、君もか?」というところでした。地震学の最正統派とそれとは縁遠かった二人の計三人が、それぞれの、しかも同じ第2の職場で、電磁気的手法という非正統派的地震予知研究に飛び込んだのはなんとも不思議なことでした。
もう4年ほども前のことになりますが、VHF電波の異常伝播から地震短期予知を試みておられる串田嘉男さんの成果を検討する八ヶ岳での研究集会にご一緒に参加すべくお誘いしたら、当日どうしても体調不良のため長時間の旅は不可能とのことで、おいでになれなかったことがありました。不整脈をお患いとのことでした。
長い旅路の末に、偶然の連鎖から、今度こそは存分に共通のサイエンスを論じてゆけるチャンスが生まれたのに誠に残念です。奥様のお話では、長年の闘病の間もお気持ちは朗らかで、まことに穏やかな大往生であったとのことです。心からご冥福をお祈りいたします。